大阪地方裁判所 平成元年(わ)2202号 判決 1991年12月24日
本籍
大阪市天王寺区空清町二番地の二
住居
同区細工谷二丁目八番一七号
工員
吉本武夫
昭和八年七月二三日生
主文
被告人を懲役三年と罰金一億四〇〇〇万円に処する。
この罰金を全部納めることができないときは、二〇万円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
この裁判確定の日から四年間懲役刑の執行を猶予する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(犯罪事実)
被告人は、工員として働きながら、株式取引を行っていたが、自分の所得税を免れようと企て、
第一 昭和六一年分の実際総所得金額が、配当所得三四二万六八七〇円、給与所得九三万六〇〇〇円、雑所得二億八六六万二〇八八円の合計二億一三〇二万四九五八円あった(別紙修正損益計算書(一)参照)のに、本名と妻子名義により行った株式の継続的取引による雑所得の全部と配当所得の一部を除外する方法により所得の一部を秘匿して、昭和六二年三月一六日、大阪市天王寺区堂ヶ芝二丁目一一番二五号の所轄天王寺税務署において、同税務署長に対し、昭和六一年分の総所得金額が一四二万八六二〇円でこれに対する還付を受ける源泉所得税額が五万二八八六円(ただし、申告書では、計算誤りにより、還付を受ける税額五万五七八六円と記載したもの)である旨の内容虚偽の所得税確定申告書を提出し、そのまま法定納期限を経過させた。その結果、同年分の正規の所得税額一億三五九七万八〇〇円と還付を受けた源泉所得税額の合計額一億三六〇二万三六〇〇円(一〇〇円未満切捨て、別紙税額計算書参照)を免れた。
第二 昭和六二年分の実際総所得金額が、配当所得四九二万六二五〇円、給与所得七五万円、雑所得七億五〇九三万三三六六円の合計七億五六六〇万九九一六円あった(別紙修正損益計算書(二)参照)のに、第一と同様の方法により所得の一部を秘匿して、昭和六三年三月四日、前記天王寺税務署において、同税務署長に対し、昭和六二年分の総所得金額が五五八万一二五〇円でこれに対する還付を受ける源泉所得税額が七〇万八三九五円である旨の内容虚偽の所得税確定申告書を提出し、そのまま法定納期限を経過させた。その結果、同年分の正規の所得税額四億四五二三万二四〇〇円と還付を受けた源泉所得税額の合計額四億四五九四万七〇〇円(一〇〇円未満切捨て、別紙税額計算書参照)を免れた。
(証拠)
(注)括弧内の算用数字は、押収番号を除き、証拠等関係カード検察官請求分の請求番号を示す。
全部の事実について
1 被告人の
(1) 公判供述
(2) 第一八回から第二二回公判供述記載
(3) 検察官調書一七通
(4) 質問てん末書一七通
2 証人吉本弥生(第二回から第六回)、吉本博則(第六、第七回)、岡隆昭(第八、第九回)、寺岡博(第一〇回)、谷康正(第一一回)、渡辺憲一(第一二、第一三回)、上田俊広(第一四、第一五回)の公判供述記載
3 証人髙田昭美、柳楽文代の尋問調書
4 岡隆昭(二通)、出原正雄、村上憲義、草野香代子、福岡匠(二通)、吉本清、福岡眸、吉本博則(二通)の検察官調書
5 吉本博則の質問てん末書三通
6 査察官調査書四三通(8、11から13、15、16、22、27、29、31、37、39、41、130は、不同意部分を除く。)
7 写真撮影てん末書三通
8 確認書四三通
9 現金預金有価証券等現在高確認書六通
10 現金預金有価証券等現在高検査てん末書二通
11 臨検捜索てん末書謄本三通
12 差押てん末書謄本三通
13 領置てん末書謄本五通
14 国民年金保険料の納付状況の照会に対する回答書
15 保険料の払込状況の照会に対する回答書六通
16 ノート一一冊(平成元年押第六四五号の1から9、35、36、以下、すべて平成元年押第六四五号であるから、符号のみを記載する。)、預金通帳四四冊(10の1・2、11の1から6、12、13の1・2、17の1・2、18の1から7、19の1から3、20、21の1から15、28、59から61、63)、預金通帳等一袋(16)、売買報告書一三袋(40の1から5、46の1から4、52の1から4)、同四束(41、45の1から3)、同一綴(56)、売買報告書等五袋(53の1から4、55)、同二束(39、44)、注文伝票総括表八袋(37の1・2、38、42の1・2、51、54、58)、同五綴(43、48から50、57)、同三六冊(72の1から3、73の1・2、74の1から9、75の1から9、76の1から4、77の1から4、78の1から5)、注文伝票総括表一袋(70)、領収証等七袋(14の1から3、15、30の1・2、32)、同一束(27)、給与明細書等一束(22)、利息計算書一綴(23)、手帳二冊(24の1・2)、「満期のご案内」等一束(25)、同一綴(26)、保険証券一枚(29)、「お支払金のご案内」等一袋(31)、野村証券関係書類一束(33)、書簡一通(34)、受渡計算書等二袋(47、62)、株式委託買付注文伝票一綴(64)、株式委託買付注文伝票等五綴(79の1から5)、ノート写し等一袋(65)、所得税確定申告書控等一袋(71)、同一綴(66)、顧客貸付担保有価証券管理帳一綴(67)、顧客貸付金担保有価証券差入書一綴(68)、顧客貸付金担保有価証券受取書一綴(69)
第一の事実について
17 脱税額計算書(1)
18 証明書(3)
第二の事実について
19 脱税額計算書(2)
20 証明書(4)
(争点に対する判断)
一 本件の争点
弁護人は、コスモ証券本店・上六支店の吉本弥生名義、吉本博則名義の株式取引の口座は、名義人である妻の弥生と子の博則にそれぞれ帰属する口座であり、被告人は両名から任されてその口座で取引をしたにすぎないのであるから、その取引による所得は両名に帰属すべきものである、そうすると、被告人の株式取引は昭和六一、六二年分とも非課税限度内であるから、被告人が脱税した事実はなく、その犯意もないと主張する。弁護人が主張するように前記口座における株式取引が被告人の取引でないとすれば、被告人の取引は、株式取引に対する本件当時の課税要件の一つである年間売買回数が五〇回以上で、かつ、年間売買株数の合計が二〇万株以上の取引(昭和六三年法律第一〇九号による改正前の所得税法九条一項一一号イ、昭和六二年政令第三五六号による改正前の同法施行令二六条一項、二項)に該当しないことになる。そこで、前記口座における株式取引による所得が被告人に帰属するのかどうが本件の争点である。
二 被告人の株式取引の経緯、本件における株式取引口座等について
1 被告人の株式取引の経緯等
前掲証拠によれば、以下の事実を認めることができる。すなわち、被告人は、中学校卒業後、旋盤工見習等を経て、実兄の水道器具製造工場で工員として働いていたが、昭和三六年一月弥生と婚姻し、同年一二月長男博則をもうけ、そのころ山一証券梅田支店で自己名義の株式取引の口座を開設して、工員として働きながら、株式取引をするようになった。そして、昭和四二年七月にコスモ証券(昭和六一年二月以前の商号は「大阪屋証券」)本店に口座を開設した後は、山一証券梅田支店における取引を次第に縮小し、主としてコスモ証券本店で株式取引をしたが、昭和五二年二月ころまでに株式取引への自己資金の投入を終えて、その後は株式の売買を繰り返すことにより多額の利益を獲得し、その利益を更に株式取引の資金として投入することにより、次第に株式の取引高や残高を拡大してきた。一方、弥生は、高校卒業後、診療所に事務員として勤務し、婚姻後は、パートタイム、内職等の形態で働き、昭和六〇年三月ころからは実弟の経営する会社の事務員をしていた。博則は、昭和六〇年三月に静岡大学農学部を卒業し、カメラマン助手等を経て、昭和六一年秋ころ親元に戻って同居し、昭和六二年四月から大阪いずみ市民生活協同組合に勤務していた。弥生は、相当早くから株式に興味を持ち、時折、被告人に依頼して前記山一証券梅田支店の口座等で株式を購入するなどしていたが、博則は、株式にはもともと関心がなく、株式取引の資金を提供したことも取引に関与したことも全くなかった。以上のとおり認めることができる。
2 本件における株式取引の口座等について
前掲証拠によれば、被告人は、昭和六一年から昭和六二年九月中はコスモ証券本店(以下、例えばコスモ証券本店を、「コスモ/本店」のように表示する。)の被告人、弥生、博則名義の三口座に売買の注文を出して現物・信用取引をしたが、担当者である本店営業部営業課長の岡隆昭が昭和六二年九月中旬に上六支店長に就任したことに伴い、同年九月二九日から一〇月二日までの間にコスモ/上六に口座を移管し、前同様に被告人、弥生、博則名義の三口座で現物・信用取引をした(以下、コスモ/本店・コスモ/上六における被告人、弥生、博則名義の口座を、それぞれ、「被告人口座」、「弥生口座」、「博則口座」という。また、これらの口座を一括して「三口座」といい、「弥生口座」と「博則口座」を一括して「弥生と博則の口座」という。)。そして、コスモ/本店における三口座の開設状況は、次の表のとおりである。
<省略>
前掲証拠によれば、この三口座は、被告人がすべて開設の手続をとったが、開設以後も、証券会社に対する日々の売買注文、連絡等の手続一切を被告人が行っていた。また、コスモ証券のほか、被告人方には、本件当時は既に使用されていなかったが、昭和四二年二月に開設(昭和五八年一一月抹消)された大和/本店の福岡眸(弥生の実弟)名義の口座(以下、「眸口座」という。)、昭和四四年一一月に開設(昭和四六年二月閉鎖)された野村/上本町(当時、野村/上六)の弥生名義の口座が存在していた。
三 弥生と博則の口座を開設した際の状況
弥生口座(現物取引)を開設した際の状況を更に詳しくみると、開設の際に現金の入金はなく、開設直後に、コスモ/本店の被告人の保護預かり口座から「チッソ」四〇〇〇株が、また、昭和四二年七月から昭和四三年六月にかけてコスモ/本店の被告人口座で買い付けられ、いったん保護預かりとなった後、被告人の手元で保管されていた「にっかつ」五〇〇〇株がそれぞれ持ち込まれて売却され、その売却金が取引の当面の決済資金となっていること、さらに、買付代金の不足を補うために開設から二か月以内にコスモ/本店の被告人口座から二回にわたり合計約七万円が入金されていることを認めることができる。博則口座(現物取引)開設の状況についても開設の際に現金の入金はなく、開設直後に「大阪窯業耐火煉瓦」合計一万四〇〇〇株が売却されて前同様に当面の決済資金となっているが、その株式は、もともと昭和五三年六月に前記山一/梅田で買い付けられたものの一部であり、同年一一月に株券の名義が博則に書き換えられたものの、昭和五七年九月から開設当日まで大阪証券金融株式会社に対する被告人の借入金の担保として差し入れられていたものである。
ところで、弥生口座について、被告人は、公判で、前記「チッソ」四〇〇〇株と「にっかつ」五〇〇〇株は、当時弥生が所有していた株式であると述べている。また、博則口座について、公判で、弥生は、自分の所有する株式を博則に贈与することにし、被告人に依頼して開設した博則口座に自分の株式を移したと述べ、被告人も、同旨のほか、「大阪窯業耐火煉瓦」一万四〇〇〇株は、もともと弥生の所有する株式であったが、弥生の意向により、弥生が以前に博則に贈与していた「サンケイビル」六〇〇〇株と交換することにして、博則口座に入庫したと述べている。しかし、前記「チッソ」、「にっかつ」や「大阪窯業耐火煉瓦」の株式が弥生の資金により購入されたものであることや、それが弥生の所有する株式であることを認める客観的な証拠はない。たしかに、前記「チッソ」株の株券の名義が弥生であったことを認めることはできるが、前掲証拠によれば、被告人は、弥生・博則名義の株券であっても、両名の承諾を得ることなく、その名義を自在に変更していたことが明らかであるから、株券の名義のみでその帰属を決定することはできない。また、被告人と弥生は、前記のように、弥生が博則に株式を贈与した旨を繰り返し述べており、たしかに博則名義の株式も多数存在するが、本件においてこのような名義の如何が意味を持たないことは前同様であり、弥生から博則に対する贈与の事実を認める客観的な証拠は見当たらない。そればかりか、博則が、株式に全く興味や関心がなく、自分名義の何らかの株式が存在することを知ってはいても、それが被告人が取引をする上での便宜上のことにすぎないと認識していたことは、博則の公判や捜査段階等の供述に照らして極めて明瞭である。これらの点や後記のとおりの被告人の査察官に対する供述の返遷状況等からすると、被告人と弥生の前記供述は信用することができない。
前記のように、弥生と博則の口座開設時に被告人口座から多数の株式等が持ち込まれたことは、口座開設の当初から、三口座が一体として運用されていたことを示すものである。
なお、弥生と博則の信用取引口座についても、被告人は、弥生の意向により開設したかのように公判で述べているが、弥生が信用取引の性質やその内容についての知識さえも十分に持ち合わせていなかったことは、その公判供述記載により明らかであり、この点に関する被告人の供述も信用することができない。
四 三口座開設後の資金や担保の口座間移動について
前掲証拠によれば、昭和六〇年二月から昭和六三年一一月までの間に合計一九回にわたって三口座間で株式取引のための資金の移動があったこと、昭和六二年までについてみても、例えば、昭和六〇年七月一〇日に博則口座から出金した六三〇万円が被告人口座に入金され、昭和六二年六月三日に被告人口座から出金した三五〇万円と弥生口座から出金した三〇万円が共に博則口座に入金されるなど多額の資金の口座間移動があったこと、このようにして、昭和六〇年二月から昭和六二年九月までの間に、被告人口座から博則口座に二回、弥生口座から被告人口座に一回、博則口座に二回、博則口座から被告人口座に一回、弥生口座に四回、一回につきそれぞれ八万円から六三〇万円までの金額の資金の移動があったこと(なお、このような資金移動は、昭和六三年にはより頻繁に行われた。)、信用取引の保証金代用証券として差し入れられた株券も、昭和六一年八月に四回、昭和六二年六月から一二月までに一二回にわたって三口座の間で相互に移動があったこと、また、被告人が昭和六一年八月に大阪証券金融株式会社から融資を受けた一億六〇〇万円の資金のうち、二二〇万円は弥生口座に、四五〇万円は博則口座にそれぞれ入金されていることを認めることができる。
以上の事実によれば、被告人が、特定の口座の株式取引のための資金や保証金代用証券の不足を補うことなどを目的に、その口座に別の口座の余剰資金や証券を移動させるなどして三口座を一体として取引に使用していたことが明らかである。被告人は、公判で、この口座間移動が被告人と弥生・博則との間の家族間の貸借であるかのように述べているが、移動の際に弥生や博則の承諾を得たものではなく、また、計算関係を明確にした清算が行われたことを認める証拠も全くないのであるから、これを貸借とみることはできない。そして、岡隆昭の検察官調書二通等によれば、被告人は、自分の判断において三口座間で資金や証券の移動をし、コスモ証券の担当者らから、口座間移動をすれば、借名による取引として同一人の取引とみなされるから、差し控えるよう警告を受けながら、これを聞き入れることなく、昭和六三年一二月末ころまで前記のような口座間移動を継続していたことを認めることができる。
五 三口座の管理について
証券会社に対する日々の売買注文、連絡等の手続をすべて被告人が行っていたことは、前記のとおりであるが、更に前掲証拠によれば、取引する銘柄、価格やその数量等もすべて被告人が最終的にその意思を決定し、証券会社の売買報告書等の計算書類、取引の結果取得した株式の株券預かり証等も被告人が排他的に管理して、弥生や博則にはその内容を逐一報告してはいなかったこと、取引の結果取得した株式についても、被告人がそれを随時売却するなど、管理処分権を排他的に行使していたこと、証券会社側も、被告人から前記口座間移動の申出があった際に弥生や博則の同意を全く問題とすることなく、これに応じるなど三口座の取引を実質的には被告人の取引と考えて対応していたことが明らかである。被告人は、公判で、弥生の依頼を受けて売買した株式があるとも述べているが、このような被告人の株式取引の実態に照らせば、弥生の依頼があったとはいっても、それは弥生が売買を希望したという程度のものであり、被告人の意思決定を拘束するものとはとうてい考えられないから、被告人が最終的に決定していたことに変わりがない。被告人自身も、査察官に対して、「妻と相談してどの株を買うか決めたこともありましたが、最終的には、私が判断し、どの口座で、どの銘柄を、いくらの値段で売買していくか、証券会社の人に自分で注文を出し、自分で決済していたのです。」(被告人の平成元年一月二七日付質問てん末書)と述べて、この事実を明確に認めていたのである。
六 弥生が株式取引に投入した資金について
被告人は、公判で、弥生が昭和三七年ころから昭和五九年までに約三〇〇万円程度の株式取引の資金を提供したと述べ、弥生も同旨を述べている。被告人と弥生の言い分は、ともに明快なものではなく、弥生が資金を提供した趣旨や提供したとする金額は、いずれの供述によっても必ずしも明らかとはいえないが、両名の言い分を善解すれば、次のようなものである。すなわち、(一)被告人は、昭和三七年ころから昭和四〇年ころまでの間に、弥生から株式を購入するよう依頼を受けて、約五〇万円の資金を預かり、うち三〇万円で弥生の希望する株式を購入したが、二〇万円は自宅の購入費用に充てた。購入した株式は昭和四〇年末までに株価が合計四五万円くらいになり、被告人は昭和四〇年末にそのうち三〇万円分くらいの株式を借り受けた。(二)被告人は、(一)の経緯により弥生から五〇万円(<1>)を借りたことになるとして、昭和四〇年ころから利息分を加えて八〇万円を弥生に返済することにした。一方、弥生は、現金三〇万円(<2>)を入金して眸口座を自分で開設した。被告人は、前記八〇万円の返済として、現金一五万円を弥生に渡したほか、昭和四二年三月から昭和四三年八月までの間に眸口座に合計六四万六七三七円(<3>)を入金した。また、弥生は、昭和四四年九月三日コスモ/本店の被告人口座に三二万六六〇〇円(<4>)を入金し、さらに、昭和四四年一一月から昭和四五年二月までの間に野村/上本町の弥生口座に合計二七万三九〇七円(<5>)を入金した。さらに、(三)昭和五八年八月に五〇万円(<6>)を、昭和五九年八月に一〇〇万円(<7>)を弥生が被告人に依頼した株式の買付け代金の不足分として出資した。被告人と弥生の言い分による弥生の資金は、以上のとおりである。そして、弁護人は、<2><3><4><5><6><7>の合計約三〇四万円、そうでないとすれば、<1><6><7>に、<2><3><4><5>の合計から八〇万円を差し引いた約七四万円を加えた合計約二七四万円が弥生の株式取引のいわゆる原資部分に相当すると主張する。
たしかに、眸口座は、後に被告人がその開設を知って自分で取引をするようになったものの、もともとは弥生が被告人に相談することなく自分で開設した口座と認めることができるし、野村/上本町の弥生口座についても、その開設に被告人が関与したことを認める証拠はなく、弥生が開設したものとみるのが自然である。このように、弥生が早くから株式取引に関心を持ち、被告人に依頼して山一/梅田で株式を購入したり、昭和四〇年代前半ころから眸口座や野村/上本町の弥生口座においてある程度の株式取引をしていたことは否定できないところであり、弥生がその金額は別としてある程度のまとまった資金を株式取引に投入したことも一概に否定することはできない。そして、そのために、弥生が本件当時の被告人の株式取引に自己固有の利益を感じていたことも理解できなくはない。しかし、弥生が投入した資金額に関する被告人と弥生の前記供述は、相当以前の出来事とはいえ、いずれも極めてあいまいなものであるとともに、しばしば変転しており、直ちに信用することはできない。<6>については、五〇万円が出資されたこと自体を認める証拠がないが、<2><3><4><5><7>は、それぞれの口座に入金があったことについては認めることができる。しかし、<2><5>はともかくとして、<3><4><7>は、それが弥生の資金によることや、その入金の趣旨を具体的に立証すべき客観的な裏付けを欠いている。また、<1>は、仮に(一)のような貸借の事実があるとしても、それは夫婦間における貸借にすぎないものであり、被告人ら夫婦がいかに金銭の収支に厳格であったとはいっても、婚姻直後から夫婦間の貸借を他人間の貸借と同様に厳格な返済が必要であると考えていたとも思われず、そのような返済が行われるというのは、極めて不自然である。利息を付けるとの点も、貸借の清算が具体的に問題となった場合や、単なる計算上のこととしてならばともかくとして、<3>の入金をした当時から利息を付ける取決めがあり、その取決めに従って入金したものとは思われない。さらに、被告人は、後記のように、査察官から詳細な質問調査を受けているのに、このような貸借の事実を査察官に訴えた形跡がない。以上の点からすると、<1>は、本件発見後に、弥生のいわゆる原資を算出するにあたり、あえて貸借として構成した疑いが極めて強く、同様にして、<3>についても、その入金の趣旨が借金の返済であるとは認められない。そして、<6><7>は、比較的最近のことであるのに、被告人自身が、査察官に対し、「ここ七年から八年前から以降は、妻から購入資金を預ったことはありませんでした。」(被告人の平成元年一月二三日付質問てん末書)とか、「ここ六・七年ぐらいは、弥生から現金を受け取って株を購入したこともありませんでした。」(被告人の平成元年三月二日付質問てん末書)などと明確にその事実を否定していたのであるから、弥生が提供した資金であるとする被告人らの前記の言い分は信用することができない。以上のように、結局のところ、弥生が株式に投入したとする資金の金額を具体的確定するだけの証拠はない。
ところで、株式取引、特に信用取引は、短期間における株価の変動を利用して、その差益を稼ぐという極めて投機性の高い取引であり、この取引をした者の多くが結局は損失に終わっていることも顕著な事実である。企業内容や株式相場についての情報を常時収集することはもとより、相場に対する長年の知識経験や読みなどがその結果を大きく支配するものであることはいうまでもない。前掲証拠によれば、被告人は、長年にわたって、株式市況を伝えるラジオ放送を聴き、株式新聞を毎日購読するほか、四季報、有価証券報告書総覧等の公刊物を熟読して会社の資産内容や業績を地道に調査し、さらに、実際の株式取引を通じて相場に関する知識経験を蓄積し、証券会社担当員の銘柄等についての意見を聴取することなく、株式相場について形成した独自の考え方から株式銘柄を選択して連日のように売買の注文を出し、その結果、本人の供述によっても合計五七〇万円程度の、株式取引の原資としてみれば、それほど多額とはいえない原資から次第に億単位にも達する高額の利益を獲得してきたものである。他方、博則はもとより、弥生にもこのような知識経験の蓄積はない。二年間で合計九億七〇〇〇万円余りにものぼる株式売買益を獲得した本件株式取引が、専ら被告人のこのような努力や知識経験等によるものであるという側面を軽視することは許されないというべきである。
もっとも、家庭内において、家族の各自が株式取引の原資を提供する一方、家族の中の特定の者が、このような知識経験を生かして、独立した明確な計算関係の下に、銘柄の決定や証券会社に対する売買等の一切の手続をすることにより、家族の資金の運用を図ることは、しばしばありうるところであり、そうであれば、各自の取引と認めることができる場合も少なくないと思われる。しかし、本件では、前記のように、資金や証券の口座間移動が行われ、三口座が一体として運用されているのであるから、このように明確な計算関係の下に行われる場合とは全く事情が異なるものといわざるを得ないのである。
本件株式取引の規模、三口座の通用状況、本件株式取引が専ら被告人の蓄積した知識経験等により成果を挙げたとの側面等を総合的に考慮すると、仮に弥生がその供述する三〇〇万円程度の資金を投入した事実があるとしても、その資金の持つ意味合いを重視することはできず、資金の点だけをとらえて、そのために被告人の本件株式取引の一部を弥生らの取引ということはできないものと考えられる。
七 被告人の供述の返遷と査察官に対する供述の信用性について
被告人は、国税当局が被告人宅を臨検、捜索するなどして査察に着手した当日は、三口座はそれぞれ名義人の取引であると査察官に供述したものの(被告人の平成元年一月二三日付質問てん末書)、翌日査察官を自宅に呼んで、全部が自分の取引であって、そのもうけも全部自分のものであることを認め(一月二四日付)、その供述を暫く維持して、取引口座を分散して売買回数が年間五〇回以上にならないようにしたことなど取引の全容を詳細に供述した(一月二七日付、二月一〇日付)。しかし、その後、弥生と博則のものと認めてほしいとする取引の明細を記載した上申書(二月一四日付)を査察官に提出し、株価が低落して納税資金に困っていることなどを訴えて、「昔は、弥生自身も株式取引を行っていたことがあり、これらの弥生の株をその後私が売買したものもほんのすこしですがあったことから、できればすこしでも昭和六一年分及び昭和六二年分の私の売買益から引いてもらうことはできないだろうかと考え、この明細を上申書に書いて提出したのです。」と供述したが、その一方で、口座移動により「各口座の取引がごちゃごちゃになって、すべて私のもうけであると認めざるを得なくなってしまった」ことや、「昭和六一年分と昭和六二年分については、三口座がごちゃごちゃでいくら私のもうけから引いてほしいと言ってもどうしようもない取引になっている」ことを承認していた(三月二日付)。そして、昭和六三年分については、三口座の取引をすべて自分の取引として所得税確定申告書を提出したことを供述した(三月二二日付、なお、三月二日付、四月一一日付では、前記上申書記載の取引を弥生らの取引とすることができないのであれば、弥生らの現物を売った時点で弥生からの借入れがあったように処理することを要望している。)が、その後、昭和六一年分の弥生と博則の口座の取引は、弥生のものであるとして供述を翻し、「全部私の取引と国税局に計算されてもいたしかたのないことですがとにかく弥生が聞きませんので」と供述を変更することが自分の本意でないことを付け加えていた(四月二一日付)。ところが、更にその後、弥生から責められて供述を変更したが、やはりその供述を撤回するとも供述した(四月二九日付)。その一方で、前記上申書を訂正して新たに上申書(五月二日付)を提出し、三口座における取引は自分のものであることに間違いないが、この上申書に弥生の主張と一致するように弥生のものとしてほしい取引明細を記載したと説明した(五月一〇日付)。その後、検察官に対しては、再び三口座はそれぞれ名義人の取引であると供述し、その後は概ねこの供述を維持して公判に至った。
このように、被告人の供述は変転しているが、査察官に対しては、三口座に弥生の株式が一部混入してはいるものの、前記口座間移動等により、被告人自身でさえ弥生の取引であると特定して認識できるものがなく、そのために被告人が三口座の取引を自分の取引と認めざるを得なくなったことを率直に供述していたのである。被告人は、公判において、査察官から不当な扱いを受けて、真意に反する供述をしたと述べているが、査察官の質問状況に違法不当な点は見当たらない。三口座の取引を自分のものと認めた質問てん末書にも、弥生の株式等が弥生口座に一部混入していたことなど被告人の一貫した言い分が含まれている。そればかりか、被告人は、質問てん末書に署名押印するに際し、供述の追加訂正をたびたび申し出た(一月二七日付、三月二日付、四月二九日付、五月二日付)ことが認められるのである。これらの点は、被告人が査察官の押しつけなどにより供述したものではないことを示しているのであって、査察官に対する供述が被告人の真意に反するものとはいえない。被告人の質問てん末書は、被告人が口座間移動等の客観的な事実を突きつけられて三口座における取引を自分の取引と認めざるを得なくなっていく過程を、被告人の心理状態の動揺を交えながら忠実に表現しているものと認められ、関係証拠と比較検討しても、全体として十分に信用できるものということができる。
八 弥生と博則の口座における株式取引の帰属について
前記のように、弥生と博則の口座が、その開設時に被告人口座から多数の株式が持ち込まれるなどして、開設の当初から被告人口座と一体として運用されていたこと、その後も特定の口座の資金や保証金代用証券の不足を補うことなどを目的に、別の口座の余剰資金や証券を移動させるなどして三口座があたかも同一の口座のように一体として運用されていたこと、被告人が、弥生と博則の口座で取引する銘柄、価格、数量等をすべて最終的に決定し、証券会社の売買報告書、取引の結果取得した株式の株券預かり証等も排他的に管理し、取引の結果得た株式についても、その管理処分権を排他的に行使していたこと、証券会社側も、その取引を実質的にはすべて被告人の取引として対応していたことなどを総合すると、被告人自身が査察官に対して供述していたように、弥生と博則の口座における株式取引はすべて被告人の取引と認めざるを得ない。
このようにして、被告人は、弥生と博則がそれぞれの口座で取引しているような外観をあえて作出しながら、三口座で自分の取引をしていたものであるが、前掲証拠によれば、それぞれの口座における同一銘柄の譲渡株数が年間二〇万株(昭和六一年分については、昭和六二年法律第九六号による改正前の租税特別措置法三七条の一〇第一項一号、昭和六二年政令第三三三号による改正前の同法施行令二五条の八第一項、昭和六二年分については、昭和六二年政令第三五六号による改正前の所得税施行令二七条の三第一項)に達しないようにし、かつ、それぞれの口座における年間の売買回数が五〇回に達しないように意図的に調整しながら取引していたことが明らかであるから、被告人は、売買等の株数と売買回数を分散させるために弥生と博則の口座を使用していたものというほかない。
九 結論
被告人は、株式取引に際して妻子名義の口座を使用するなど真実の所得を秘匿する行為をし、所得金額が過少であることを知りながら、所得税確定申告書を税務署長に提出したものであるから、被告人には犯意があり、その行為が所得税法二三八条一項にいう「偽りその他不正の行為」に該当することは明らかである。したがって、弁護人の主張は理由がない。
(法令の適用)
罰条 いずれも所得税法二三八条一項、二項
刑種の選択 いずれも懲役刑と罰金刑を併科
併合罪加重 刑法四五条前段、懲役刑について刑法四七条本文、一〇条(犯情の重い第二の罪の刑に加重)、罰金刑について刑法四八条二項
労役場留置 刑法一八条
刑の執行猶予 懲役刑について刑法二五条一項
訴訟費用の負担 刑訴法一八一条一項本文
(量刑の理由)
本件は、長年にわたって株主取引をしていた被告人が、主として株式取引により昭和六一年と六二年の二年間に合計九億六九〇〇万円余りの所得をあげながら、株式取引による雑所得の全部と配当所得の一部を除外して申告し、二年分合計五億八〇〇〇万円余りの所得税を脱税した事案である。脱税額が極めて高額であるばかりか、所得税の還付さえ受けていたものであって、納税義務に著しく違反する大胆な脱税行為というほかなく、この点からすれば、被告人を実刑に処することも十分に考えられるところである。
しかし、他方、被告人は、前記のとおり、弥生と博則の口座において株式取引をしていたものであり、それ自体はもとより違法であるが、純然たる仮名や他人名義を使用した場合と比較すれば、その悪質さの程度は幾分低いものということができる。また、前記のように弥生の原資が被告人の本件株式取引に混入していたことも否定はできず、この点も、量刑上はある程度考慮せざるを得ない。さらに、前記口座間移動等について、被告人に対して断固たる措置を採り得ないまま、被告人の取引を放任していた証券会社の姿勢にも全く問題がなかったとはいえない。被告人は、中学校を卒業後、実兄の工場で工員として働きながら、株式取引をしていたものであるが、もともと昔気質の実直な節約家であり、株式取引により得た利益により多数の不動産を取得したことはあるものの、一家の生活ぶりは一般と比較しても極めて質素であり、株式取引による利益を自分や家族の遊興費等に使用した形跡もない。そして、現在では、株価の低落により手持ちの株式に顕著な損失を受けている。
その他、被告人は、異議の申立てをしてはいるものの、本件脱税額に関し、本税、附帯税合計八億五一〇〇万円余りを一応納付していること、被告人にはこれまで前科前歴がないことなど被告人のために酌むべき事情も多く認められるので、これらの事情を総合考慮して、被告人を主文の懲役刑と罰金刑に処し、懲役刑については、その執行を猶予するのが相当と判断する。
(出席した検察官宮下凖二、弁護人西垣剛、桃井弘視)
(裁判長裁判官 仙波厚 裁判官 三好幹夫 裁判官 平島正道)
修正損益計算書(一)
自 昭和61年1月1日
至 昭和61年12月31日
(吉本武夫)
<省略>
修正損益計算書(二)
自 昭和62年1月1日
至 昭和62年12月31日
(吉本武夫)
<省略>
税額計算書
吉本武夫
<省略>